現会長紹介

卓球界の『すごい人』

文:木村清二 構成:高橋喜治

【佐々木会長の肩書き】

 佐々木氏の毎日は、パソコン・スマホの電源ONから始まります。それは同氏と47年間の付き合いになる、6歳年下の私・木村清二が同氏の現在の肩書や社会人になってから現在までの卓球歴を紹介することで理解できると思います。

現在の肩書きは次の通り。※令和4年 掲載時

 ①港区卓球連盟会長

 ②東京都卓球連盟理事(審判委員会)

 ③関東学生卓球連盟理事

 ④日本学生卓球連盟委員

 ⑤日本卓球協会公認・公認レフェリー

 ⑥国際卓球連盟公認・国際審判員

 ⑦東京税関卓球部顧問

 ⑧港区スポーツセンター実技指導員

 ⑨城南六区  などなど

佐々木選手
現役時代の佐々木会長

【生れと仕事と卓球と】

 佐々木氏は昭和24年、北海道・弟子屈町で出生。昭和42年に大蔵省・東京税関に入関。戦型は「右、ペン、裏ソフトラバー、前陣速攻のち遅攻」選手として旧港区SCが完成する前の、港卓連(港区卓球連盟の事。以下同じ)の試合が虎ノ門にある鞆絵(ともえ)小学校体育館等で開催されていた頃から東京税関所属選手として活躍。

 

【選手として】

 同氏は正攻法の選手として活躍し、昭和56年に港区卓球選手権大会の一般種目で3位入賞。男子複で私と組み3位入賞が3回あります。今でも自慢は「新人戦の出場資格がないんだ。」との事。唯一の弱点はカットマンの攻略法を知らないことであり、当時は相手がシェークハンドラケットを持っているだけで戦意喪失していました。ベンチのアドバイスも無力でした。

 また、ラージボールの先駆者であり旧港区SCでは専用の高いネットを持参し、ハードに練習していました。平成に入って各地でラージボール大会があると参戦し、特に混合複ではS選手(川崎市)と組み、最初のうちは連戦連勝だったらしいです。流し打ちの技術習得に磨きがかかりました。

決勝戦審判
平成18年度全日本卓球選手権大会の決勝戦での1コマ

【指導員と審判実績】

 旧港区SCが開館した昭和50年頃、港区教育委員会から実技指導員として委嘱されました。

 

 昭和54年に実技指導員は卓球ルールにも精通しているべきだとの横須賀成良氏の助言に従い、当時の指導員約10名が公認審判員≪旧3級≫を受験し、資格を取得したのが審判員活動の始まりです。その後に同氏は港卓連の理事になっています。

 3級取得の3年後に上級審判員≪旧2級≫を、その3年後に公認レフェリー≪旧1級≫(この時佐々木氏は36歳)を取得しました。

 卓越した審判技術と的確な判断およびジャッジ等が認められて、全日本卓球選手権大会の男子シングルス決勝主審を5度務めた(歴代最多記録)功績は素晴らしいものがあり誇りに思います。

【国際交流と遠征旅行】

 国際審判員として日本で開催された2回の世界卓球選手権大会に審判員として参加。中国・深圳(しんせん)の国際大会にも日本代表審判員として派遣され、一気に中国語を話せるようになったのを機に、一選手として中国語圏の海外遠征を企画。

 

 現地駐在員に声がけして元五輪出場選手との対戦を実現させ、平成4年に中国・上海、翌5年に台湾・台北に「東京税関卓球部員及び審判員有志の計14名」で3泊4日の遠征旅行に出かけた事もあります。

【交流と集合写真】

【卓球連盟の理事として】

 港卓連の理事として昭和55年頃から、その才能が開花します。組織を束ねる者は会員等の声を聴き、内外の情勢を把握し、役員間で意見交換し、時には英断し、時代と共に歩む姿勢が大事です。

 昭和55年1月には「港卓連ニュース、創刊号」を手書きで発行しています。

 

(参考に当時の港卓連役員は、会長:平山羊介氏、副会長:中村要蔵氏、理事長:伊東 宏氏、理事:横須賀成良氏、理事:三上秀蔵氏、理事:中塚恵治氏、理事:赤沢昭二氏、理事:佐々木 修氏の8名で構成されていました。)

港卓連ニュース1号(表紙)
港卓連ニュース1号(表紙)
港卓連ニュース1号(裏面)
港卓連ニュース1号(裏面)

【手書きとワープロの事業報告】

 昭和59年度港区卓球連盟事業報告書を手書きで発行。昭和60年度の同事業報告書からはワープロで作成されています。これは現在の港卓連定期総会に向けた港卓連事業報告書の様式・記載内容の基礎となっています。

 

【稀代のアイディアマン】

 同氏はアイディアマンであり、文才あり、達筆で、弁も立つ。社交的でもある。カラオケも得意。酒席を盛り上げてくれます。当時からワープロ、パソコン操作等が得意で精通していました。達筆で賞状書きの免状も取得していることから、現在は大会の開・閉会式での会長挨拶、賞状書きも担い、表彰式での入賞者への表彰もしております。

昭和59年港区卓球連盟事業報告書
昭和59年港区卓球連盟事業報告書
昭和60年港区卓球連盟事業報告書
昭和60年港区卓球連盟事業報告書

【卓球競技のルール改定と理事長就任】 

 平成14年の理事長就任から現在まで、卓球のルールも数々の変更がありました。「接着剤、赤・黒ラバー、ユニフォームの色、ボール・台の色、11本制、促進ルール適用の時間、アドバイスルール、タイムアウトの導入、サービスルール、広告、などなど」。

 国際卓球連盟→日本卓球協会→各都道府県卓球協会・連盟→23区卓連に連絡があり、その導入時期及び会員への周知方法など、さぞや苦労したことでしょう。これらのルール変遷においては実際には選手、審判員及び審判長にとっても大きなルール変更であり、変更当初は戸惑った選手も多かったと思います。 

 私が最も印象に残っている理事長の言葉・裁定は「団体戦においてチーム全員のユニフォームは同じであることが望ましい」に留めた事です。当時、1人でもユニフォームが違っていたらチームの棄権扱いになる大会が多かった時期に、1人でも多くの選手への参加を望む同氏の姿勢を表した英断でした。

主審の姿
主審を努めるのは佐々木会長(現在と違いエンドラインをジャッジする副審が2名存在する)

【審判員の実務】

 今、私たちが普通に大会に参加してプレーできるのは同氏を含む港卓連役員のお陰です。各種大会で審判員実務を行う公認審判員(1級~3級)も大会直前には現行の「ルールブック/審判員の手引き」を読み直したり、携行して、自分のルール解釈に誤りがないかどうかを自ら確認して臨んでいます。

 

【審判長の任務】

 佐々木氏は数多くの大会で審判長を務めてもこられました。

 審判長になると、事前に役員との大会運営に関する会議に出席し、適用ルール及び特別ルールの採用方法などを議論し、「競技上の注意」や「タイムテーブル」を作成する任務があります。

 また、都内の審判員に要領を案内し、必要人数を確保・通知。当日は役員として会場入りし、開会式で「競技上の注意」を説明し、試合が始まると「審判長席」に居て、各種トラブルの裁定を行います。本部進行係と連携し、会場の閉館時間までに試合終了を目指すのが大事な役目となります。

 

【手書きの大会プログラム】

 今手元に、昭和59年3月20日の健康増進センター(大崎スポーツプラザ)で開催された「第28回港区卓球選手権大会 プログラム」があります。

 種目は男女一般単、男女複、セミシニア、シニア、ベテラン。12ページに及ぶ手書きの対戦表です。協賛が日本卓球株式会社。出場者の組合せ会議・トーナメント表作り・タイムテーブルの作成・印刷・本部席での大会運営など、同氏が関与した膨大な作業量を考えると私たちは脱帽するしかありません。これらの作業は現在の港卓連役員に脈々と受け継がれています。

 

【敬愛する佐々木会長へ】

 気分転換を兼ねて今でも港区SCで実技指導員として初心者指導に熱心です。

 横浜市の自宅に居ても卓球のことばかり考えている佐々木修氏です。毎週のように会議・大会等で出かけて卓球に没頭し多忙を極める先輩です。今後も健康に留意していただき、審判長・会長として私たちを導いて下さい。 

[令和4(2022)年某日、生涯一審判員の木村清二]


木村清二審判員
全日本男子決勝戦にて主審を務める木村審判員(平成14年度 松下浩二vs木方慎之介 戦)

■筆者プロフィール:木村清二(きむら せいじ)

昭和29年、青森県青森市出身、東京税関卓球部監督、港区卓球連盟運営委員、国際審判員。

「右ペンホルダー・ドライブマン」の選手としても数多く入賞経験あり。

自身も審判員として、全日本選手権の男子決勝の主審を3度(渡辺武弘vs渋谷浩、岩崎清信vs渋谷浩、松下浩二vs木方慎之介)務めるなど、数多くの名勝負を裁いてきた。

令和元年、日本卓球協会より、佐々木会長と伴に上級公認審判員等の表彰を受賞。

日頃から「審判が名勝負を創る」を肝に銘じ、現在も活躍している。